安田町をまるごと体験

安田の偉人

宮田 定則

1675年~1753年

土佐学会の道を作ったいごっそう

延宝4年、医師の子として生まれる。24歳の時に京に旅立ち、当時の医学の大家・浅井習伯などについて医学を修める。その後浅見絅斎に儒学を学び門下生の中でもひときわ目をかけられた。しかし、ある時定則が酒気を帯びて席についた為、浅見絅斎が講義を取りやめてしまう出来事が起こりました。それに腹を立てた定則は「約束を違える師には従い申さん」と十数年も師事した師の元を去り、土佐に帰ったといういごっそうな一面もあった。

帰郷後は土佐藩の儒官として迎えられ、自宅では子弟を集めて講義を行いました。その門下からは、戸部愿山、南恵山らの学者を出し、土佐学会に貢献。「今日、高知城下の士人は定則のおかげで人倫の大道をわきまえるようになった」とその学問を高く評価された。

釈志静禅師 (徹翁)

1784年~1854年
文人 常行寺住職

芸術センスにあふれた文人住職

天明4年、越後国(新潟県)に生まれる。幼い悪露に郷里の寺に入り、後に信濃国(長野県)の松代越下長岡寺の跡をつぐことになった。そして文化の末、土佐に来て安田町法禅寺の住職になり、荒れ果てていた同寺を檀家の援助を受け復興させました。また、藩主が大法要を営んだ時に述べた仏法の考えが認められ高知城下江ノ口瑞応寺の住持にもなっています。

多種多芸の文人で交友も広く、岡本寧浦、髙松順蔵、髙松濤亭、斉藤梅外、豊永弥三郎らと親交をもった。その人となりは穏やかでさっぱりしており、質素を好み、悟りの道にも深かったようです。また、詩文、俳諧、茶道、書道にも造詣が深く、尺八の名手でもあり、絵画や造園までも手掛けるほど芸術的な才能にあふれていました。

天保5年には真如寺に移り、老後は安田少林山常行寺の住職として余生を送りました。

髙松 濤亭

1810年~1868年
西洋医師

信念を貫き、庶民に貢献した敏腕医師

龍馬の義兄、髙松順蔵の弟。郷士髙松益之丞之次男として文化7年に生まれる。

長崎オランダ医学を学んだ後、高知城下で西洋医学の開業医になった。すると、新しい治療法とその博学がたちまち人々に知られ、門前は多くの人でいっぱいになったといいます。さらに、洋学を志す青年たちも次々に門下生として集まり、その中には土佐勤皇党のひとり、松山深蔵などがいました。

また、上には決してへつらわず、藩主・山内氏から侍医にと誘われた時も自由がしばられるのが嫌だと断った。代わりに故郷・安田町に帰って自宅で開業し、大勢の人を救いました。

斉藤 梅外 (基道)

1825年~1909年

地元の人に愛された博学の医師

文政8年、儒学者・斉藤玄信の長男として生まれる。斉藤家は代々儒学者の家柄で幼少の頃から父について儒学を学び、後にオランダから伝わった蘭法の医術も修めました。医師として生計を立てていましたが、安い料金で治療を行い、地元の人々に慕われました。また、同じく安田の常行寺住職・釈志静と交流して碧厳録を愛読し、禅にも興味を持っていました。さらに、数学の三角法、解析学など研究して当時の新知識にも精通していた。