安田町をまるごと体験

尊王攘夷に徹し、幕末に散った安田の志士

清岡治之助の住居跡に碑が建っています。

清岡 治之助 じのすけ

1826年~1864年
二十三士副首領

文武両道、沈着の頭脳派

文政9年、中山郷間下の大庄屋の長男として誕生。幼少の頃から勉学に熱心で、岡本寧浦に儒学を学び、他にも剣術、柔術、砲術など文武に励みました。

さらに江戸に出てからは安積艮斎に入門。土佐に帰るとその実績が評価され、藩校・田野学館で文武教頭に就任。国学の指導に当たっていました。

文久2年には藩命により土佐を出国し、その途中で土佐勤皇党に加盟。また、京では宮方弥公家の屋敷に出入りして志士らと交流し、国事に奔走しました。翌年、土佐藩が土佐勤皇党への弾圧をはじめ、ついに武市瑞山を拘束すると同志らと釈放運動を展開。元治元年、田野の清岡道之助らとともに野根山に武装決起し、藩に武市らの釈放を求める嘆願書を提出。しかし、藩は全くこれを聞き入れず最悪の処罰を受けることになりました。

柏原 禎吉

1838年~1864年
二十三士

武術と学問の才を備えた勇敢な志士

天保9年、郷士の家に生まれる。幼少から武芸を好み、14歳の時には父の代わりの乗初の儀式を務めました。また学問にも力を入れ、龍馬の義兄・髙松順蔵の私塾で龍馬の甥・坂本直や石田英吉らとともに学びました。この塾には龍馬も度々遊びに来ていました。

嘉永2年から10年間、高知城下で剣術や砲術、馬術を学び、文久2年には山内豊範の参勤交代のお供をし、この前後に土佐勤皇党に加盟します。土佐に帰ってからは安芸郡奉公所軍務局の民兵小頭に任命されています。

文久3年、藩による土佐勤皇党の弾圧が始めると、安芸郡の代表者・清岡道之助が武力決起して同志の釈放を要求する案を提出。禎吉もこれに賛同し、元治元年、野根山の岩佐関所に武装屯集して武市瑞山らの釈放を嘆願。しかし、藩に聞き入れられることなく処罰されました。

宮田 頼吉

1835年~1864年
二十三士

武市瑞山に認められた剛勇な志士

天保6年、郷士の次男として誕生。子供の頃から骨格がたくましく、大きく鋭く、見るからに剛勇で人を呑むような雰囲気が現れていたそうです。

龍馬の義兄・髙松順蔵の経史を学び、武市瑞山のもとで剣術を学びました。瑞山にはその才能を認められ土佐勤皇党に加盟。吉田東洋の暗殺にも加わりました。また、後に中岡慎太郎らが組織した50人組の一人として江戸に出て、諸藩の志士とも交流。国事周旋の朝命を受け、幕府と朝廷の間周旋することになった山内容堂の警護にあたりました。

元治元年には、野根山の岩佐関所で武市瑞山らの釈放を求める二十三士のひとりとして武装屯集に参加し、処罰されました。

柏原 省三

1835年~1864年
医師、二十三士

温厚で誠実、国家に身を捧げた志士

天保6年、郷士の三男として誕生。美しい容姿と温厚で優しい気質を持ち、大変親孝行だったそうです。

髙松順蔵の弟である濤亭に医学を学び、後に、高知市で医師・和田公潤にも医学を学びます。安政2年には大阪でさらに蘭法医術を身につけ、帰郷して開業医に。安芸郡奉行所の傭医にもなりますがこれに満足せず、文久元年に医学術を勉強するため長崎へ。この時に多くの勤皇の志士と交流したのです。かくして、一身一家を顧みずひたすら国家の為に身を捧げ、二十三士のひとりとして武装屯集に参加し、処罰されました。

近藤 次郎太郎

1840年~1864年
医師、二十三士

自ら勇気をもって藩に挑んだ志士

天保11年、安芸の郷士の三男として生を受け、特に安田の、庄屋・近藤恒太の養子となりました。幼い頃から武術に興味を持ち、髙松順蔵のもとで学問を学びました。

やがて庄屋となってからは、熱心に任務を全うして村人を愛し、治績が大いに上がったそうです。その後、武市瑞山率いる土佐勤皇党に加盟し、時事に尽くします。文久2年には50人組に加わり、江戸で山内容堂の護衛にもあたりました。

帰郷後は、藩の土佐勤皇党への弾圧に屈せず、清岡道之助らと武装屯集を参謀。武市瑞山らの釈放の願いは叶わず、二十三士のひとりとして処罰されました。

豊永 斧馬

1837年~1864年
二十三士

由緒ある侍の意志を継ぐ熱き志士

天保8年、紺屋の次男として誕生。祖先は、小笠原越後守という長宗我部氏の家臣で豊永郷の領主でした。そのことを知った幼い斧馬は、侍となって家名を再び栄えさせようと決意。髙松順蔵に学問を習うと同時に、武市瑞山に剣術を習いました。

万延元年、田野町の郡奉行所軍局の民兵に採用され、文久2年には50人組のひとりとして江戸で山内容堂の護衛に当たるなど江戸、大阪を行き来して国事に尽くしました。

しかし、元治元年、二十三士として野根山に屯集し捕えられ、処罰されました。

宮田 節斉

1837年~1864年
二十三士

学問を愛し国事に尽くした悲願の志士

天保7年、吾川郡弘岡村の寺の次男として誕生。子供の頃から学問が好きで、土佐郡一宮村の医師・三宮浦造に医学を学んだ後、仏教を修め蓮池村正覚寺の住職となります。しかし理由あって寺を去り、安芸川限り追放になり、安芸郡伊尾木村に移住しました。

それ以降、安田町の医師・宮田謙次に医学を髙松順蔵に経史を学ぶなど精力的に学問を修め、やがて宮田謙次の養子になります。しかし、世の中が国事多難となると勤皇の志士として活躍することになった。土佐勤皇党に加盟し、清岡道之助らと野根山屯集に加わり、処罰されるという最後を迎えました。