安田町をまるごと体験

若き竜馬の心と活躍を支えた人々

岡本 寧浦 ねいほ (退蔵)

1794年~1853年
儒学者

弥太郎には、特に訓育に留意し、
多くの門下生に慕われた儒学者

三菱財閥の創設者・岩崎弥太郎の師であり、叔父。寛政6年、安田浦の乗光寺5代目住職・弁翁の子として生まれました。仏典の研究をするため京都に渡り造詣を深めましたが、仏法が、実社会にあまり実益がないと悟り、儒学に転向。それがきっかけで、大阪の篠埼小竹や大塩平八郎につき、儒学を学ぶ。江戸の安積艮斎らと学友の付き合いをした。

天保6年、安田に帰り岩崎弥太郎の母の姉、ときと結婚。再び大阪に出て儒学を教えていると評判が上がり、藩主・山内豊熈に呼び戻され、土佐藩の教授館下役に採用されます。勤めのかたわら「紅友社」という学塾を開くと門下生が次々に増え、その数は1000人以上に。 その中に、岩崎弥太郎、清岡道之助、河田小龍などもいました。そして、酒と交友を何よりも愛した彼は、樋口真吉、武市瑞山、吉田東洋など多くの人々と交流を持ったそうです。

写真は髙松順蔵と千鶴の墓。

髙松 順蔵 じゅんぞう (小埜)

1807年~1874年
儒学者、歌人

竜馬に影響を与え、安芸郡勤皇志士の育ての親

龍馬の長姉・千鶴の夫で、若き日の龍馬は彼を慕ってたびたび安田町に来ていました。寺田屋での生活を「ちょうど私がお国にて、順蔵さんの家に居るような心持ちにており候事に候」と記した姉・乙女姉宛への手紙も残されています。

順蔵は幼い頃から郷土の学者、祖父・弥三衛門のもとで学び、わずか8歳で郷士職を継ぎました。後に江戸に出て、経書や歴史の研究、絵画、長谷川流居合術などを熱心に習得。また、和歌の道にもいそしみ、生涯に詠んだ二千余首の歌は「採樵歌」4巻にまとめられています。さらに、彼の学問を慕って教えを請うが後をたたず、その中には中岡慎太郎をはじめとする勤皇志士も多く存在しました。こうした安芸郡の勤皇志士だけではなく、龍馬経国的思想にも大きな影響を与えたといわれています。

坂本 直 (髙松 太郎)

1842年~1898年
海援隊隊士

龍馬の志を継ぎ、共に海援隊で活躍

髙松順蔵の長男で龍馬の甥。18歳から九州に武者修行に行き、旅の途中で武市瑞山と遭遇したのをきっかけに土佐勤皇党に入り、武市らとともに尊王攘夷運動を始めました。文久2年、朝廷が江戸に下る際、福使の姉小路公知に付き添い役2ヶ月間護衛を務めました。

やがて叔父・龍馬のすすめで開国派の勝海舟の門下生になり、土佐藩の航海術を習います。その後龍馬とともに鹿児島に向かい、薩摩藩の支援を受けて長崎亀山に日本初といわれる「亀山社中」を創立。ユニオン号の購入に尽力するなど海援隊でも中堅幹部として活躍しています。明治4年には朝廷の命を受けて龍馬の家跡を継ぎ、様々な役職を歴任。晩年は高知に帰り、実弟・直寛宅で過ごしました。

坂本 直寛 なおひろ (髙松 習吉)

1853年~1911年
自由民権運動家、高知県議会議員

自由民権運動の中心的理論派

髙松順蔵の次男として嘉永6年に誕生。明治2年、龍馬の兄である叔父・坂本権平の養子となり「南海男」と改名。明治7年、高知市に政治団体・立志社が設立されると社員になり、本格化する自由民権運動の中で植木枝盛と共に理論的指導者として活躍しました。

また、高知新聞の論説委員、立志社ないに設けられた憲法起草委員、海南自由党の創立委員などを歴任。馬場辰猪、植木枝盛らとともに三大論客として全国に名を広めました。そして、自由民権運動が衰退した、明治17年県議会選挙で当選。翌年、キリスト教の洗礼を受け、政治とキリスト教の伝道、両面で活躍しました。また牧師となり軍隊、監獄への伝道も行いました。明治31年のは北海道に移住し、開拓と伝道に力を尽くしました。

石田 英吉 (伊吹 周吉)

1839年~1901年
海援隊隊士、秋田・長崎・千葉・高知県知事、貴族院議員

幕末から維新に才を発揮した逸材

天保10年、中山郷中の川の医者の長男として生まれる。幼少の頃から頭脳明晰で髙松順蔵につき経史を学び、15歳で藩校・田野学館に通いました。その後家業を継ぐため大阪で医学を学びましたが、土佐勤皇党の吉村寅太郎に心酔し、天誅組に加わって大和挙兵に参陣しました。しかしこの戦いで敗れ、長州に逃れました。

1866年には高杉晋作の奇兵隊に入り、木戸孝允らとも交流。龍馬が海援隊を組織すると優秀な能力を認められ活躍し、下関海(峡)戦ではユニオン号の指揮を任されました。龍馬の死後、明治の世になってからは秋田、長崎、千葉、高知県知事を歴任。第一次伊藤内閣の時には農商務大臣・陸奥宗光の下で次官を務めあげました。後に、貴族院議員を経て男爵の称号を受け、華族のなりました。